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アヘン戦争 林則徐はなぜ敗れたのか?

Japan On the Globe(173) 国際派日本人養成講座

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_/ 地球史探訪:アヘン戦争
_/_/ ~林則徐はなぜ敗れたのか
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/ _/_/_/  世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような
_/ _/_/ 小国」と戦って負けるとは誰が予想したろう。
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■1.失敗の予感■

 1838年 (道光18)11月,湖広総督・林則徐(りんそくじ
ょ)は時の清国皇帝・道光帝から欽差大臣(皇帝の命により全
権を与えられた特命大臣)として、イギリス商人によるアヘン
密輸入根絶の勅命を受け、広東に向かった。出発に際して、林
は、

 死生は命なり。成敗は天なり。(生き死には運命であり、
事の成就、失敗は天命である。)[1,p145]

 と語って涙を流したという。失敗を予感していたのであろう。
この予感は当たり、清帝国はアヘン戦争敗北の代償として莫大
な賠償金をとられ、香港を割譲し、これ以降、列強の餌食にな
っていった。

 当時の清国のある高官は、英国を「ケシ粒のような小国」と
呼んだ。その英国に、世界の中心たる大清帝国が戦って敗れよ
うなどと、林則徐以外に誰が予想できたろう。林は、そして清
国は、なぜ敗れたのか?

■2.英国のアヘン輸出の狙い■

 当時、中国から輸入される茶は、英国人の生活の必需品であ
った。ところが英国から輸出できるものは何もない。ここで英
国が目をつけたのがインド産のアヘンであった。インドからア
ヘンを中国に輸出し、そのインドにはイギリスの工業製品を売
り、そこで得た代金で英国が中国茶を買う、という三角貿易を
成立させた。

 しかし中国ではアヘン中毒患者が激増し、1838年当時の輸入
金額は1400万両以上に達していた。清朝の年間歳入4千万両の
実に1/3以上である。輸入超過は支払いのための銀の流出を
招き、銀貨の高騰が税金を実質的に高めて、農民を苦しめた。

 清朝はアヘン輸入を禁じたが、アヘンの価格を高騰させ、密
売の利益を高めるだけで、密輸入は後を絶たなかった。英国の
商船と清国の密売人が、賄賂として2%の現物を警備当局に納
めると、見逃してくれるだけでなく、清国海軍が密輸船を海賊
から保護までしてくれる。当局は賄賂の半分を自分の懐に入れ、
残りは「密輸入品取り押さえ」の証拠として政府に提出する、
という見事な密輸入システムが出来上がっていた。

 手を焼いた清国朝廷で、アヘン厳禁論が起こり、その具体的
な政策を提言した林則徐の上奏文が皇帝の目にとまり、特命全
権大臣としてアヘン撲滅を命ぜられたのだった。

■3.戦いの開始■

 どうして汝らの国でさえ吸食しないアヘンをわが国に持
ち込み、人の財を騙し、人の命を害するのか? [1,p152]

 1839年2月4日、林則徐はこのような書面をアヘン商人達に
つきつけ、積み荷のアヘンをすべて供出するように命じた。こ
の時のイギリス貿易監督官チャールズ・エリオットは、いった
んは要求を拒否したものの、林則徐による広州のイギリス商館
封鎖という強攻策に屈して、イギリス商船が持ち込んでいたア
ヘン2万283箱(1425t)を中国側に引き渡させた。林はこの
大量のアヘンを衆人環視の中で焼却して、アヘン撲滅の決意を
見せつけた。

 さらに林則徐は「将来アヘンを中国に持ち込まない。もし違
反した場合には積荷は没収、人は処刑されても構わない」とい
う誓約書の提出を求めたが、エリオットはこれを拒否し、広州
に滞留するイギリス人全員をマカオまで退去させた。

 5月27日、香港の対岸で、イギリス人水夫達が上陸し、酒
に酔って、一人の中国人を暴行し、死亡させるという事件が起
こった。林則徐はただちにエリオットに犯人を中国官憲に引き
渡すよう要求させた。エリオットは犯人不明と称して拒否した
が、林則徐はマカオに移ったイギリス人商人に対して、食糧供
給を絶った。エリオットは50数家族とともに、沖に停泊中の
イギリス貨物船に移った。

 ここにイギリス軍艦ボレジ号、続いてヒヤシンス号が到着し、
誓約書を提出して正常な貿易を再開しようという一部のイギリ
ス商船を押さえつつ、清国軍艦や砲台を攻撃して、小競り合い
を繰り返したが、清国側は林則徐のもとに一致団結して反撃に
転じ、イギリス船を外洋に追い出した。

 道光皇帝は林則徐の果断な処置を「朕の心はために深く感動
す」と賞賛した。

■4.イギリス軍来襲■

 英本国では、政府が議会で清国への派兵を提案した。グラッ
ドストン議員は、「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続
的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこと
もない」と反対した。しかし投票の結果は、271票対262
票の僅差で戦費の支出が承認された。

 兵員4千、軍艦16隻、大砲540門、輸送船および武装船
等32隻からなる派遣軍が1840年6月に清国の近海に姿を現し
た。イギリス軍はいったんは広州湾を封鎖したが、林則徐によ
って固められた防備に乗ずる隙がないと見ると、北上して上海
の近くの定海を襲い、さらに北京を指呼の間に臨む天津沖に姿
を現して、英外相の書信を北京政府に手渡した。それには没収
したアヘン代金の賠償、謝罪、沿海の島の割譲などを要求して
いた。

 宮廷の権臣たちは動揺した皇帝を説得して、イギリス側が要
求もしていないのに、林則徐を罷免させ、「国を誤り、民を苦
しめること、これより甚だしきはない」と叱責させた。

■5.清国が防備を固めて持久戦に持ち込めば、、、■

 林則徐は、このような事態を正確に見通していた。イギリス
艦隊が広東に姿を見せた時に夫人に送った手紙にはこう書いて
いる。

 いま、イギリスの兵船は中国海域に現れたが、広東に対
してはどうすることもできないと分かれば、きっと他の省
に対してその矛先を向けるに違いない。だが、他省の海港
には何ら防備がなされていないから、諸省の総督・巡撫は、
少しでも自分たちに都合の悪い事態が出てくれば、罪を余
になすりつけて、余の誤った処置が敵の攻撃を挑発したと
非難することであろう。余としては、その是非をただ公論
にゆだねるのみである。[2,226]
 

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