最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

RSS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
コメント
▼このエントリーにコメントを残す

 「住民」とは誰か? 「素人の乱」

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

黄金の金玉を知らないか?さんより



低線量被ばく_揺らぐ国際基準_追跡!真相ファイル 投稿者 gomizeromirai


ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ <一部転載>

◆講義録

受身では見えないものがある

今日のテーマにある「リテラシー」とは、読み書き能力という意味だ。「政治リテラシー」とは、つまり、政治の読み方、政治の書き方を身につけよう、ということである。

何かを「読む」とき、ごく漫然と見聞きするだけでなく、自分が積極的にかかわることによって、初めて見えてくることがある。「書く」ことは「読む」能力にとっても重要なのだ。政治へのかかわり方で近ごろ面白いと思うのは、映像やインターネットを使って発信をする人がとても増えていることだ。ほんのちょっとした発信をするだけでも、政治の見え方がまったく違ってくる。

現代社会は、人々を受動的にする社会である。昔であれば、人を支配するときには強制力を持った権力が用いられていたが、現代社会は視覚によって支配されている。視覚を操るのはメディアである。そうした今の政治を、目を凝らして自分が住んでいる都市や街を見て、日常的なやりとりの中で何とか取り戻すことを考えたい。

「政治」と言うと何だか遠く感じる人も多いかもしれない。今「政治」と言ったときに何となく嫌な感じがするのは、結局のところ私たちの無力感から来ているのではないか。私たちの政治への関与は、ほとんどの場合、選挙の投票を通じた間接民主主義という形に切り詰められている。けれども、それだけだと何も変わらない。多くの人がそうした無力感に悩まされている。

日本でも1970~80年代に市民運動や社会運動が盛んになる。けれども、当時のそうした運動も既存の政治の形式をどこか模倣していたように思える。明確なリーダーやそれを支える知識人が存在して、その指導の下で活動が行われることが多く、ボトムアップ型ではなかったのである。今の新しい若い人たちの運動は、そうではなく、一人ひとりが何かを積み上げていくような仕組みだ。選挙などでリーダーを選ぶ代わりに、直接、自分自身が民主主義にかかわるものであり、国会や議会に行って政治に参加するのではなく、日々の生活の中で考えていくような政治だ。

与えられた選択肢から何かを選ぶのではなくて、むしろ身の回りにいる人と話し合って合意形成を行う政治が考えられないか。ここでとても重要になっているのは、「国家」ではなく「個人」を主体に考えることだ。例えば、「この街で自分に何ができるか」など、ごく小さな単位で考えることを通じて、同時に世界にもつながる広がりも視野に入れることができないだろうか。

続きを読む
関連記事
コメント
▼このエントリーにコメントを残す

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。