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191:反米大陸 by サブリナ on 2012/05/06 at 15:14:37

伊藤千尋   反米大陸

 9・11の1年半後にイラクに仕掛けた戦争は、1989年にアメリカがパナマに侵攻した悪夢の再現だった。
 この悪夢は父ブッシュ、チェイニー国防長官、パウエル統合参謀本部議長によるものだが、イラク戦争のときは子ブッシュ、チェイニー副大統領、パウエル国務長官の仕掛けになった。仕掛け人は同じ、相手が違っただけ。その相手はパナマのときがノリエガ将軍で、イラクのときはフセイン大統領だった。まさに標的である。
 アメリカはくりかえし同じことをやっている。いまさらこんなことを強調することもないだろうが、それが中東だけではなく南米でも中南米でもくりかえされていることについては、日本人にはまだ十分には知られていない。
 しかし、このことを世界に知らしめるべきだと決断した男がいた。ベネズエラのウゴ・チャベス大統領である。2006年9月20日の国連総会で、チャベスはブッシュを名指しで8回にわたって「悪魔」呼ばわりをした。左手でチョムスキー(738夜)の本をふりかざして。
 ベネズエラは南米の北端のカリブ海に面した石油王国だ。原油埋蔵量は世界第6位で、西半球では最大の産油国になっている。ところがアメリカがこの原油に目をつけ、1976年以来、長らく親米政権を操作しつづけてこの国を牛耳ってきた。国営ベネズエラ石油はアメリカの意のままだった。
 当然、貧富の差が激しくなった。そのため首都カラカスでさえ、都心部と周辺部では繁栄とスラムがひどく両極化した。ベネズエラが「王様と物乞いの国」と呼ばれてきたのは、そのせいだ。

 地元勢力や反米勢力は何度か抵抗を試みた。が、そのたびにアメリカは新自由主義による経済政策を巧みに導入して、一部の富裕階級を除いて、貧困の輪はますます広がるばかりだった。
 1989年、ガソリンの値上げをきっかけに(いま、日本のガソリンがまさに問題になっているが)、「カラカソ」と呼ばれる暴動がおき、スラムの住民1000人が射殺された。そこで1992年、貧困層からなる軍人の一部がついにクーデターをおこすのだが、これは鎮圧され未発におわった。
 このときの反乱陸軍中佐の一人がチャベスだったのである。むろんチャベスは投獄されたが、熱情あふれる執拗な国民の赦免運動で釈放され、1998年の大統領選で「貧者の救済」をスローガンにあげて当選する。
 チャベスは先住民の権利を認め、大統領の権限を強める新憲法を制定し、石油の収入を貧民に分配し、農地解放を実施した。国名もベネズエラ・ボリバル共和国となった。南米をスペインの植民地支配から解放しようとした英雄シモン・ボリーバルの名を入れたのだ。
 石油利権が危うくなったアメリカはチャベスの切り崩しに出た。放っておくわけがない。2002年には工作軍が仕組まれて、チャベスはカリブ海の海軍基地に軟禁され、親米経済団体の会長が暫定大統領に就任した(巨額の資金がアメリカから流れた)。しかし、もはや国民も市民も黙っていなかった。やむなくチャベスを解放するのだが、それでもCIAによるチャベス暗殺計画などが秘密裏に連打された。が、チャベスは屈せず2選を果たし、2006年には3選され、国連でブッシュを弾劾する演説をやってのけたわけである。


ウゴ・チャベスの国連演説の様子
手に持った本はノーム・チョムスキーの
『覇権か、生存か―アメリカの世界戦略と人類の未来』


 このベネズエラの反米政権の誕生に続いて、南米で次々に左派政権が樹立されていったことを、日本のテレビはほとんどニュースにしなかった。
 ブラジルでは2002年にルーラ大統領が当選し、いまでは第三世界きってのリーダーシップを発揮している。ルーラは小学校を中退するほどの貧農の生まれで、労働組合運動の活動家になったのち、ゼネストの指導をして地歩を築いていった。
 翌2003年には、アルゼンチンで左派のキルチネルが大統領になった。アルゼンチンは2001年の段階では債務返済が不可能なほどの経済危機に苦しんでいた。IMF(国際通貨基金)からの融資を得るための条件として緊縮財政を強いられ、銀行預金の引き出しを制限していたのだが、これが結局、ひどい経済危機や経済暴動を引きおこしてしまったのだ。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)がいかに「危険な甘い罠」であるかについては、ぼくも『世界と日本のまちがい』(春秋社)にものべておいた。これは、アメリカが各国の通貨当局の求めに応じてドルと金とを交換することから始まった体制で、世界の交易をアメリカが拡張していくためのまたとない体制だったのだ。
 2005年には“南米のスイス”と呼ばれてきたウルグアイで、バスケスが大統領になって、独立以来初の左派政権が誕生した。バスケスはやはり貧しい労組幹部の子供に育っていて、夜学で学習をしながら医者になった人物で、「大統領に就任してからも地域の診療所で治療に当たる」と宣言した。

<千夜千冊「遊蕩篇」より>一部転載
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1232.html

204: by on 2012/05/28 at 02:40:05

ブログを始めて間もない者です。
参考になるページを探しています。
色々参考にさせて頂きます。

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GHQが日本人に封印した歴史を読む

しばやんの日々さんより<転載> 
GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4席の軍艦が、江戸湾入口の浦賀の沖に姿を現した。

ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。




「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。」(『もう一度読む山川日本史』p.209)

と、まるで野心のかけらもないような書き方になっている。これでは江戸幕府がなぜあれだけ抵抗したかが見えてこないし、なぜペリーがかくも強硬であったかという事がわかるとは思えない。その魂胆がどこにあったかという肝心な点については教科書には何も書かれていないのと同じだ。

前回の記事で紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に『ペルリ提督日本遠征記』の重要な部分が引用されている。




「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に當然ならん。(中略)

…大英国はすでに東印度及び支那の諸海灣に於て、最も重要なる地點を占有し居れり。殊に支那の海灣に於て然り。

彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制扼[制圧]し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…

幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』*政府に手を觸られずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(『抹殺された大東亜戦争』p.114-115) *イギリスのこと

この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。

また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。

「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上 p.115)

ペリーは、中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えなのだが、アメリカの方針も同様のものであったはずである。
そのことは、ペリー来航までのアメリカの年表を見れば見当がつく。

1845年 テキサス併合
1846年 オレゴン併合、米墨戦争勃発
1848年 米墨戦争終戦 メキシコよりテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを取得
1849年 ハワイと和親条約締結
1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航

と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。
たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。



それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。
アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立し、その後米国が1845年に併合する。
翌1846年にテキサスを巡り再度アメリカとメキシコとが戦うも(米墨戦争)アメリカが勝利し、メキシコから広大な領土(テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア)を奪い取ったという流れだ。

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191:反米大陸 by サブリナ on 2012/05/06 at 15:14:37

伊藤千尋   反米大陸

 9・11の1年半後にイラクに仕掛けた戦争は、1989年にアメリカがパナマに侵攻した悪夢の再現だった。
 この悪夢は父ブッシュ、チェイニー国防長官、パウエル統合参謀本部議長によるものだが、イラク戦争のときは子ブッシュ、チェイニー副大統領、パウエル国務長官の仕掛けになった。仕掛け人は同じ、相手が違っただけ。その相手はパナマのときがノリエガ将軍で、イラクのときはフセイン大統領だった。まさに標的である。
 アメリカはくりかえし同じことをやっている。いまさらこんなことを強調することもないだろうが、それが中東だけではなく南米でも中南米でもくりかえされていることについては、日本人にはまだ十分には知られていない。
 しかし、このことを世界に知らしめるべきだと決断した男がいた。ベネズエラのウゴ・チャベス大統領である。2006年9月20日の国連総会で、チャベスはブッシュを名指しで8回にわたって「悪魔」呼ばわりをした。左手でチョムスキー(738夜)の本をふりかざして。
 ベネズエラは南米の北端のカリブ海に面した石油王国だ。原油埋蔵量は世界第6位で、西半球では最大の産油国になっている。ところがアメリカがこの原油に目をつけ、1976年以来、長らく親米政権を操作しつづけてこの国を牛耳ってきた。国営ベネズエラ石油はアメリカの意のままだった。
 当然、貧富の差が激しくなった。そのため首都カラカスでさえ、都心部と周辺部では繁栄とスラムがひどく両極化した。ベネズエラが「王様と物乞いの国」と呼ばれてきたのは、そのせいだ。

 地元勢力や反米勢力は何度か抵抗を試みた。が、そのたびにアメリカは新自由主義による経済政策を巧みに導入して、一部の富裕階級を除いて、貧困の輪はますます広がるばかりだった。
 1989年、ガソリンの値上げをきっかけに(いま、日本のガソリンがまさに問題になっているが)、「カラカソ」と呼ばれる暴動がおき、スラムの住民1000人が射殺された。そこで1992年、貧困層からなる軍人の一部がついにクーデターをおこすのだが、これは鎮圧され未発におわった。
 このときの反乱陸軍中佐の一人がチャベスだったのである。むろんチャベスは投獄されたが、熱情あふれる執拗な国民の赦免運動で釈放され、1998年の大統領選で「貧者の救済」をスローガンにあげて当選する。
 チャベスは先住民の権利を認め、大統領の権限を強める新憲法を制定し、石油の収入を貧民に分配し、農地解放を実施した。国名もベネズエラ・ボリバル共和国となった。南米をスペインの植民地支配から解放しようとした英雄シモン・ボリーバルの名を入れたのだ。
 石油利権が危うくなったアメリカはチャベスの切り崩しに出た。放っておくわけがない。2002年には工作軍が仕組まれて、チャベスはカリブ海の海軍基地に軟禁され、親米経済団体の会長が暫定大統領に就任した(巨額の資金がアメリカから流れた)。しかし、もはや国民も市民も黙っていなかった。やむなくチャベスを解放するのだが、それでもCIAによるチャベス暗殺計画などが秘密裏に連打された。が、チャベスは屈せず2選を果たし、2006年には3選され、国連でブッシュを弾劾する演説をやってのけたわけである。


ウゴ・チャベスの国連演説の様子
手に持った本はノーム・チョムスキーの
『覇権か、生存か―アメリカの世界戦略と人類の未来』


 このベネズエラの反米政権の誕生に続いて、南米で次々に左派政権が樹立されていったことを、日本のテレビはほとんどニュースにしなかった。
 ブラジルでは2002年にルーラ大統領が当選し、いまでは第三世界きってのリーダーシップを発揮している。ルーラは小学校を中退するほどの貧農の生まれで、労働組合運動の活動家になったのち、ゼネストの指導をして地歩を築いていった。
 翌2003年には、アルゼンチンで左派のキルチネルが大統領になった。アルゼンチンは2001年の段階では債務返済が不可能なほどの経済危機に苦しんでいた。IMF(国際通貨基金)からの融資を得るための条件として緊縮財政を強いられ、銀行預金の引き出しを制限していたのだが、これが結局、ひどい経済危機や経済暴動を引きおこしてしまったのだ。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)がいかに「危険な甘い罠」であるかについては、ぼくも『世界と日本のまちがい』(春秋社)にものべておいた。これは、アメリカが各国の通貨当局の求めに応じてドルと金とを交換することから始まった体制で、世界の交易をアメリカが拡張していくためのまたとない体制だったのだ。
 2005年には“南米のスイス”と呼ばれてきたウルグアイで、バスケスが大統領になって、独立以来初の左派政権が誕生した。バスケスはやはり貧しい労組幹部の子供に育っていて、夜学で学習をしながら医者になった人物で、「大統領に就任してからも地域の診療所で治療に当たる」と宣言した。

<千夜千冊「遊蕩篇」より>一部転載
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1232.html

204: by on 2012/05/28 at 02:40:05

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